大晦日:あの日あの時、年越し蕎麦
- 写真・文/田中青佳
- 2015年12月21日
- 読了時間: 3分

大晦日といえば、年越し蕎麦。
日本全国津々浦々誰もが、紅白を観ながら、ズルズル蕎麦をすすっている。
年越し蕎麦を食べないなんて、伝統を重んじない血気盛んな若者だけよね!
…なんて思い込んでいたのも、今は昔。
結婚して九州で年を越すようになってから、年越し蕎麦を食べない地域もあると知りました。
「スーパーなんかで蕎麦を売っているのは知っているけど、ずっと食べていなかったしねぇ」だそうな。
テレビを見ながら、帰省土産を食べたり、早々おせちをつついたり、煮物なんかを食べたりしながら、
ゆるりと新しい年を迎えます。以前には「細長ければいいんでしょ」と、豚骨ラーメンを食べたこともあったとか…
そう言えば、西日本では蕎麦自体、あんまり食べないようです。
今から10年くらい前、これまた九州は熊本の人気の温泉地でのこと。
昼食に立ち寄った、風情ある佇まいのお店で、蕎麦と蕎麦湯も頼んだら、
ポカンとした様子で、奥様が「厨房に確認してきます!」と走り去り、しばらくしてから
なんだかすごく申し訳なさそうに「蕎麦湯って、なんでしょうか…」と質問されたことがありました。
あの時の店内のソワソワとざわついた感じ、衝撃だったな。
そう。まさに衝撃。子供時代、北関東(茨城)で毎年正月を迎えていた私にとって、
年越し蕎麦を食べない、という事実はそれだけで「衝撃」でした。
だって、親戚一同揃って蕎麦を打ち、大きな釜で茹でて、一息ついた頃に紅白を見ながら、
「いい出来だね。来年はいい年になる」なんて言い合うのが年の瀬の恒例行事だと思っていました。
蕎麦のない大晦日なんて、バースデーケーキのない誕生日会のようなもの…!
しかしながら、九州での年越しが、もう6回目になろうとしている今では、
蕎麦のない年越しも、食卓の上に馬肉が並ぶお正月も、私にとって「普通」となりつつあります。
ちょっと馴染みが早すぎて図々しいけど、「違い」が「普通」になっていく年月の愛しさよ。
メディアの普及や流通の発展で、各地が同じような風景にならされていく近年において、
各地のこの「違い」の貴重さを思わずにはいられません。
それはさておき、子供時代に食べた、皆で打った年越し蕎麦は、素晴らしくおいしかった。
里芋・にんじん・ごぼう・こんにゃく・木綿豆腐・大根・鶏肉なんかがごろごろ入っていて、
すするというより、もぐもぐ噛んで食べる、ボリューミーな蕎麦でした。
おつゆも野菜の出汁が出ていて、お腹いっぱいでも、つい汁まで飲み干してしまって。
いつも、げっぷしながら、除夜の鐘を聞いていました。
祖父母が天に召され10年以上が過ぎ、あの蕎麦を食べることは、もう二度とできません。
当たり前だった風景も、今となっては、古き良き思い出のワンシーン。
寂しくないわけはないけれど、恋しい思い出の味があるというのは、とても幸福なこと。
今となっては、ただただ有り難い。
そして今は、あの頃の私が知らない、おいしいものに日々出会っています。
家族のために作る自分の腕が生み出す料理、友人の作ってくれるお惣菜、こどもと食べるおやつ…
今年も、今までの人生も、たくさんたくさん、おいしかったです。
来年もこれからも「おいしい日」は、続いていく。そう思える私は、最高の幸せ者。
これを読んでくださっている皆様の毎日も、「おいしい日」であったらいいなと心から思います。
2015年、今年もありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。
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